
7月になり、母から再び連絡がありました。
2度目の検査入院をすることになり、そのときに先生から現在の体の状態や、これからの治療方法について説明があるとのことでした。
「家族にも来てほしい」
そう言われ、私も東京の病院へ行くことになりました。
母からがんだと聞いたのは5月。
そのときは電話で話を聞いただけでした。
今回は初めて病院へ行き、先生から直接説明を聞くことになります。
ただ、この日の記憶を振り返ってみると、病院で聞いた話と同じくらい忘れられないことがあります。
夏休みの新幹線です。
今考えても、完全に甘く見ていました。
平日に有休を取って、静岡から東京へ
病院での説明は平日だったので、会社は有休を取りました。
朝から新幹線に乗り、静岡から東京へ向かいます。
病院があるのは、それまで行ったことのない場所でした。
昔なら、知らない土地の病院へ一人で行くとなれば、事前に路線図を調べたり、駅で聞いたり、地図を持って歩いたりしたのだと思います。
でも今はスマホがあります。
目的地を入力するだけで、
「何時の電車に乗る」
「何番ホームから乗る」
「どこで乗り換える」
「何時ごろ到着する」
「駅から徒歩何分」
というところまで教えてくれます。
駅員さんが改札で切符を切っていた時代から生きている自分からすると、本当にすごい時代になったものです。
知らない東京の病院へ一人で向かう日だったので、この便利さにはかなり助けられました。
「平日だから自由席で座れるだろう」
ここで私は一つ判断を誤りました。
平日です。
静岡から東京へ向かう新幹線なら、
「まあ、自由席でも座れるだろう」
と思っていました。
そこで自由席で乗ることにしました。
ところが、このとき完全に頭から抜け落ちていたことがあります。
世間は夏休みでした。
当然のように座れません。
それどころか、車両の接続部分のドア付近まで人でいっぱいでした。
仕方なく、そこで立って東京方面へ向かうことになりました。
しかも夏です。
暑い。
人は多い。
座れない。
病院へ着く前から、なかなかの試練です。
今となっては笑い話にできますが、あのときは地獄でしかありませんでした。
品川に着いても、まだ座れない
なんとか新幹線を耐え抜き、品川に到着しました。
そこから山手線に乗り換えます。
ここまで来れば少し楽になるかと思いましたが、やっぱり座れません。
結局、静岡を出てからかなりの時間、ほぼ立ちっぱなしでした。
ようやく目黒駅に到着。
そこからはタクシーに乗り、10分ほどで病院へ着きました。
この日は母の病状を聞きに来たはずなのですが、病院に着いた時点ですでに、
「帰りはどうしよう」
と思いたくなるくらい疲れていました。
2年前の出来事ですが、今でもあの新幹線の混雑はよく覚えています。
病室にいた母は、思っていたよりずっと元気だった
病院に到着し、受付で聞いていた病室を伝えて面会の許可を取りました。
事前に、母の妹である叔母も説明を聞きに来ると聞いていました。
叔母夫婦を待ち、待合室で合流してから母の病室へ向かいました。
そこで会った母は、
思っていたより、ずっと元気でした。
がんと聞いていたので、もっと弱っている姿を想像していたのかもしれません。
しかし、このころの母はまだ普通に動くことができていました。
島では畑仕事もしている。
今のところ、苦しさも特にない。
そんな話をしていました。
実際に会ってみても、すぐにどうにかなってしまうような状態には見えませんでした。
5月に電話で、
「これから死ぬ人間にも優しくできない?」
と言われたこともありました。
それだけに、普通に話している母を実際に見て、少し拍子抜けしたところもあったと思います。
先生から、家族だけで説明を受けた
しばらく母と話していると、私たちは別室へ呼ばれました。
説明を聞いたのは母本人ではなく、家族だけでした。
先生からCT画像を見せてもらいました。
ただ、当然ながら私は医療の専門家ではありません。
画像を見ても、どこがどうなっているのか、正直よく分かりませんでした。
先生から説明されたのは、がんがかなり進行していて、現状では手術で取り除くことができないということでした。
まず抗がん剤による治療を行う。
治療によってがんが小さくなり、手術できる状態になれば手術を検討する。
ただし、その可能性は高くない。
私が当時の説明として覚えているのは、このような内容です。
電話で「大腸がんになった」と聞くのと、病院でCT画像を前にして先生から説明されるのとでは、やはり違いました。
ここで初めて、
「思っていたより悪いんだな」
と理解したのだと思います。
悪い。でも、母はまだ元気だった
先生からの説明が終わり、もう一度母の病室へ戻りました。
少し話をして、その日は帰ることにしました。
先生の説明を聞いたことで、完治するのは難しいのだろうとは感じました。
一方で、その時点の母は普通に話せて、動けて、島では畑仕事までしていました。
少なくとも、
「今すぐどうこうなる状態ではない」
とも感じました。
病気がかなり進んでいると聞いた不安。
実際に会った母が思っていた以上に元気だった安心感。
両方があったように思います。
この時点では、まだ私自身も「闘病生活が始まった」という実感はそれほどありませんでした。
そして、また静岡まで帰る
病院を出れば、当然ですが静岡まで帰らなければなりません。
行きだけでかなり疲れていましたが、また約2時間かけて帰宅です。
母の病状について先生から初めて説明を受けた日。
今振り返れば、とても重要な一日だったはずです。
それなのに細かいところまで鮮明に覚えているのは、
満員の新幹線でずっと立っていたことだったりします。
人間の記憶というのは、そんなものなのかもしれません。
このときはまだ、母も元気でした。
私も、これから先に起こることを知りません。
まずは抗がん剤治療を始める。
治療が効いて、できることなら手術ができるところまで小さくなってほしい。
そんな段階でした。
ここから母の治療が始まり、私も少しずつ母の病気に関わっていくことになります。
※この記事は、約2年前の出来事について、私自身の記憶をもとに記録したものです。医師から受けた説明についても当時の記憶に基づいており、一般的な大腸がんの治療方法を説明するものではありません。病状や治療方針は一人ひとり異なるため、具体的な治療については担当の医療機関へご確認ください。

